人生は楽しまなくっちゃ

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母が生まれた家 ①

母は昭和2年生まれです。北陸の漁師町で繊維工場を経営していた祖父(母の父)とその2番目の妻との間に次女として生まれました。当時の日本の繊維産業は輸出産業で業界全体が好景気に沸いていた時代だったと聞いています。祖父は福井の出身で、新しく織物工場をたてる土地を探して旅をしていたときにこの漁師町が気に入り、工場を始めたそうです。港も近いし、水も豊富で、何より夫が漁に出かけた後の漁師の妻たちという労働力が豊富にあったので、この地を選らんだそうです。

母が生まれた頃の実家は、それはそれは豪奢な建物でした。木材もいいものを取り寄せ、離れに客間を持ち、台所も大勢の客をもてなせるよう、大人数が一度に立ち働けるほどの規模でした。

庭も広く、私が子供の頃、本物のタライにのって遊んだ(笑)立派な池もありました。

☆旧岡﨑家10.jpg

詳しくないのですが、客間の外に回遊廊下があり、京都のナントカという建物と同じ造りだと聞いたような気がします。写真を見ると屋根は檜皮葺き? 私も3歳くらいまでこの家で育ちました。

母は、そんな漁師町の一角の御殿のような家で、お嬢様として何一つ心配なく育てられたのでしょう。

☆旧岡﨑家2.jpg

習い事もし、京都の女学校に進学させてもらえるほど裕福な暮らしだったと思います。

ただ、箱入り娘というわけではなく、好き勝手し放題のわがまま娘でもなく、多少は世間知らずだったかもしれませんが、明るい誰にでも可愛がられる少女だったと想像します。近所の友達も大勢いたようです。

まだ元気な頃の母を見ていて気が付いたことがあります。

人にものをあげるのが大好きでした。新品でなく自分が使ったものでも構わず、他人に「これあげるわ」と言ってあげてしまうのです。「また、あげたいあげたい病が始まった」と言ってよく父がからかっていたのを覚えています。想像するに、子供の頃、美味しいお菓子や贅沢なおやつを家でもらえるわけです。子供ですから、美味しいものは独り占めしたいですよね。でも祖父祖母から躾として「みんなに分けてあげなさい」と毎日のように言われたんでしょうね。また、裕福な家は持っている物を独占するのではなく、周囲の人と分かち合うことが美徳だという考えだったのかもしれません。

しかし、何も心配しなくてよかった幸せな時間はそう長くありませんでした。

続く