人生は楽しまなくっちゃ

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出産、子育て、そして倒産、しかし…

昭和25年に結婚、昭和26年に兄が生まれました。これ以降の母の人生は順風満帆とは言えなかったようです。戦後の日本の繊維産業は、好不景気の波が交互にやってきます。この頃はまだ田舎の繊維産業は潤っていたようです。「ガチャ万景気」と呼ばれた頃です。しかし昭和20年代後半には不景気の波が訪れたようです。私と兄の年の差は5年、それぞれ名前には「一」と「三」が付いています。中間に「二」の付く兄がいても不思議じゃありませんよね? ちょうど不景気の頃、何があったか、ついに両親には聞けませんでした。その後、化学繊維製品に力を入れたこともあってなんとか工場は息を吹き返したそうです。しかし私が3歳の頃、漁師町のあの豪邸を売り払い、工場に隣接して建てた新居に引っ越しました。引っ越してからも好不景気の波にゆさぶられ続けます。前述したように父はお酒が好きで景気のいい時には芸者遊びもしたようです。ある時父は高級な着物を母に買ったそうです。その直後、母は町を歩いていた時に、同じ着物を着た女性にあいさつされたそうです。同じ着物を母と芸者にプレゼントするなんて父はまったく気がきかない男です。 その着物がどうなったか…母の死後、母のタンスを整理しましたが、どの着物がそうなのかわかりませんでした。もしかしたら、すぐに誰かにやってしまったのかもしれません。

私が小学生の頃、母が30代だった頃は家業は比較的順調でした。夏休みにほうぼう旅行に連れていってもらったことを覚えています。しか母が40代になり、地方の零細な繊維産業はたちゆかなくなってしまいます。工場の倒産?閉鎖?です。母が40代半ば、私が中3の頃でした。

こうして思えば「母が生まれた家①」で紹介した漁師町の豪邸にいた頃が一番幸せたったのでしょう。

認知証がすすんでからの母はよく、その時住んでいた町の名前を出して「〇〇に帰りたい」って言い出しました。「今いるところが〇〇だよ」とか「あなたの家はここなのに、どこに帰りたいの?」と言っても、何か納得いかない不思議そうな顔をしていました。その時の母にとって「〇〇」は、あの漁師町の豪邸、生まれてから30年間過ごした家、多分、楽しかった思い出がいっぱい詰まったあの家のことなんです。そして母が「帰りたい」と言うのは「家に行きたい」ということだけではなく「あの時代に戻りたい」ということだったに違いありません。気づいてはいましたが、どうすることもできません。別のことに母の気をそらすことしかできませんでした。

工場の閉鎖後、両親がどうやって私たち兄弟を育ててくれたのか、よくわかりません。贅沢はしていませんが、特別に不自由もしていません。学校で何かが必要だと言えば、黙ってお金を渡してくれました。兄弟を二人とも東京の大学に通わせてくれました。父は知り合いの伝手を頼って働きに行っていました。母も料理やお花を教えて僅かながら収入を得ていました。きっと子供たちが成人するまでは、と頑張ってくれていたに違いありません。いまになれば、その頃の両親の気持ちを考えることができますが、その当時は自分のことで一生懸命でした。自分は東京暮らしを楽しんで、学生生活や仕事が忙しいことを言い訳にして、年に1回くらいしか帰省しなかったことを父母はどう感じていたんだろう?と今になって考えます。父母が50代、60代の頃、まだまだ二人とも元気でした。母は料理やお花の生徒さんに囲まれて楽しそうに見えていました。だけど、子供が成人してからの父母の一番楽しみって、やっぱり子供の顔を見ることだったんだと思います。もう少し多く帰省して沢山話をしておけばよかったと今になって思っています。