人生は楽しまなくっちゃ

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母が生まれた家 ②

母が小学生の頃、祖父が糖尿病にかかりました。贅沢な食事と日本酒の飲みすぎが原因でしたが、当時の祖父を諫められる人は周囲に誰もいませんでした。祖父はお酒を飲みながら看護婦さんにインシュリンを注射させていたそうです。たまに漁師町を離れて山間の温泉に療養に行くこともあったそうです。当時は珍しかったハイヤーで、祖父は妻や娘を連れて行ったそうです。想像ですが、療養に行っているはずなのに、お酒は飲み続けていたのでしょう。

太平洋戦争が始まって、祖母が倒れました。出征する兵士たちを率先して見送り、みんなの先頭で「万歳!」を叫ばないといけない立場だったそうです。暑い夏の日だったと聞いています。脳溢血でした。この日から、祖母は寝たきりになりましたが、私が小学校低学年の頃まで存命でした。やせ衰えた祖母の顔をうっすらと覚えています。

祖母が倒れたので、母は家の女性のトップになったわけです。妹の面倒や家全体の切り盛りなど、これまで経験したことがない責任がまだ10代だった母の肩にかかります。

それでも母は京都の女学校に行かせてもらいました。京都の生活は大変楽しかったようで、母の死後、身の回りを整理していたら当時の友人たちと交換した写真とか手紙とか日記とかが出てきました。いかにも10代の女の子が好きそうなかわいいデザインのものでした。戦時中でも乙女心は不滅ですね。

母が漁師町の実家を離れて京都で羽を伸ばしていたころ、母の兄が亡くなりました。昭和18年のことでした。盲腸炎に罹って入院中に腹膜炎を併発して亡くなったそうです。現在の医療技術だったらあり得ないと思います。戦時中です。漁師町の病院でどのような治療ができたのかわかりませんが、母の兄も戦争の犠牲者の一人かもしれません。とにかく工場の跡取りがいなくなったわけです。祖父は母を京都から呼び戻しました。華やかな京都の街で同年代の友人たちとすごしていた楽しい生活との別れ、母が素直に帰りますと言うわけがありません。工場の番頭さんが京都まで出向いて嫌がる母を連れ戻してきたそうです。

そして昭和20年、祖父が亡くなりました。2年前の「跡取り」の死が相当こたえたのではないかと思います。当時18歳だった母は「家長」になり「工場の責任者」にもなってしまいました。

昭和25年に母は婿をもらいます。やはり男でないと工場を切り盛りすることは難しかったのでしょう。

☆外雄・きの江結婚式.jpg

この結婚のことを母はず~っとこぼしていました。

「周囲でお酒で体を壊したり暴れたりする人をみていたから、お酒は飲まれますか?って聞いたのよ。そしたらお父さんは『少々、たしなむ程度です』って言ったのよ。何が少々よ。大酒飲みだったわ」

昔はこんな会話が日本中であったんでしょうね。

もう少し、母の元気だった頃の思い出を書かせてください。介護生活はその後で。