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真夜中の電話

2015年9月13日 午前4時 自宅の電話が鳴りました。こんな時間のこんな電話はイヤなもんです。実はこの時、ぎっくり腰と坐骨神経痛の痛みで満足に歩けない状態でした。やっと電話機にたどり着いたと思ったら、留守電になる前に切れてしまいました。着信表示には父母が住む街の市外局番が…。

前月に母が入院している病院の担当医から「もって2,3か月…」と言われていたので、この時点で全てを悟って覚悟を決めました。すぐ折り返し電話しましたが話し中。数分後に架けなおしたところ「呼吸をされてない状態です」とのこと。「何時ごろ引き取りに来られますか?どなたか近所にお住まいの方は?」 こんな時間なので誰に頼んでいいのかわからないことだらけ。

この時の気持ちは、経験者で無いとわからないと思います。永かった介護生活、もっと永かった母との思い出、楽しかった記憶と辛かった記憶が混然一体となって頭の中をめぐっていました。でも思い出に浸っている余裕はありません。朝イチの新幹線の時間を調べ、取り合えずの身の回り品と着替えをもって家を出ました。

実家の最寄り駅まで2時間強、新幹線の中から病院に連絡し到着時間を伝えたところいかにも「早く引き取ってくれないと困る」と言わんばかり。近くに住む親類は母の妹家族だけ。高齢の叔母にこんなことお願いするわけにはいきません。なんとか、自分が着くまで病院内の遺体安置室に置いてもらえることになりました。

家族が近所にいない患者さんも少なくないのに、どうして病院は、自分たちの都合だけで早く引き取れって言えるんでしょう?

(と、文句を言ってますが、病院と看護婦さんの事情もよく理解しているつもりです。ベッドが空くのを待っている患者さんが大勢いらっしゃいます。少ない人数で多くの入院患者さんを看なくてはいけないので、時間的に余裕がないこともわかります。何より、数か月間、献身的に母の世話をしてくれた病院には感謝しても感謝し尽くすことはありません。この地域の医療事情に原因があると思っています。)

新幹線の中で、菩提寺に連絡し、葬儀社と連絡をとり、おおまかなスケジュールを決めます。最寄りの駅に着き、タクシーを飛ばして病院に着いたのが午前10時。ナースステーションに立ち寄り挨拶と母の居場所を確認します。

病院の裏手にある遺体安置室。母は顔に白い布を被せられて無言で横たわっていました。そっと布をはずします。病室のベッドで寝ていたときと変わらぬ顔がそこにはありました。不思議と涙は出ませんでした。

遅れて叔母やなにくれとなく母の様子を見てくれた知人が最期のお別れにやってきます。

昼頃、葬儀社が遺体の引き取りにやってきました。看護婦さん数人が見送ってくれました。

こうして、認知症の母との10年以上にわたる介護生活は区切りをつけました。享年88歳でした。

 

(記憶に頼って書いているので、事実が間違っている場合は申し訳ありません。ご指摘いただければ修正いたします。)

 

これから10年にわたる遠距離介護の記憶に残っていること、母との楽しかった思い出を少し書いていこうとおもいます。